~バタフライ・ヤマドリという、イメージについて~

~~~第2弾はバタフライ・ヤマドリという、イメージについて書きました!ぜひ、公演にいらしてください~~~ 蝶々夫人、ヤマドリ、は日本ブランドの中ではどんな位置づけか、という話題です! さて、蝶々夫人、 バタフライと昆虫というテーマはどこから来たか? インターナショナルにクラシックな表象文化をみてみると、昆虫(日本語)、インセクトinsect(英語)、インセッティinsetti(伊)というコンセプトは、西欧古典ではたいへん珍しいテーマです。エジプト等では動物の神様が登場しますので絵画化されたり、また詩にもあったのでしょうが、昆虫や自然が盛り込まれやすい日本文化はどうやって展開してきたのでしょうか? ルネサンス以前~後のイタリアの画家・彫刻家達はダンテの神曲、神話、その後のイタリア文学に随分影響をうけている事に気づき、日本でも案外、一般に思われているより、文字文化が、歴史的プロダクトに影響をあたえているのではないかと仮定しました。テキストが一番シンプルに、意味的に公平に理解を促進するだろうから、案外多くの古今東西の作家は、古典的に淘汰されても残るような強いテキストに、多くイメージ源を負っている部分があるのではないかと考えるようになりました。 イタリアのルネサンスやキリスト教経由の、国際的に有名で重要な様々な様式、また多くの非西欧の様式やテーマは、どのように作られ、伝播したかに随分興味がある時期がありましたが、たいていこれらは美学や芸術学の範疇におさまり、音楽学で頻繁に、語られることはほとんどありません。しかし、私は声楽やオペラでは”詩”やテキストにしめる意味合いが大変大きいので、色々な歌やオペラのテーマというのは、具体的な言葉を持つ表象の分野と、各時代、もっと近い所にあると思います。 さて、大学でいろいろ調べていると、イタリアのルネサンス(ミケランジェロやダビンチ)の前に、文字をもってイタリアを統一したともいえるダンテ・アリギエーリがあり、彼の神曲(ディヴィーナ・コッメーディア)が、当時の文化人の教科書というか、勉強・解釈しなくてはならない大きな本であったこと、この物語の前にはトゥルバドゥールや、世紀末的思想、いくつかの神曲前にも、これらのいろいろな雰囲気のもととなる、多くの有名ではないが、詩人や物語が山積していたことがわかりました。その後ルネサンス、、フランス革命、産業革命と進んでこのような立地の欧米の中で、1900年代に日本のプロダクトが面白かったのは、自分たちに無い、文化体系があったからです。(ルネ・ラリックや、ガレなど宝飾家なども図案をとったりしたように、) ここでジャポニズムがどのように目立つかというと、自然や、日本画や、徳川時代までの城内の屏風や襖や、狩野派などなどの装飾や工芸などに登場する、花鳥風月という題材や自然を愛するようなコンセプトです。それから、けっこう、平和的に映ったのではないかと思います。 さらに調べていくと、江戸時代に、城等に屏風を受注した豪族を喜ばせるために、狩野一派に代表される、屏風や城内に納める絵師達は、俳諧から、お題を頻繁に持ってきた事や、俳諧において、季語が重要であるようになったこと、がわかりました。(または中国の詩や、山水画など、自然についての中国の文化の影響もある)わたしは、詩において、季語(またはそのような比喩表現)が盛んになって、文字として残った事がジャポニズムの背景にあると思います。俳諧がなくても多くの当時の日本人は自然や動植物を好んだかもしれないが、俳諧はそれを助長し、そのようなオリジナリティを推し進めた要因であると思います。 俳諧から、テーマをとってきた事実については”日本美術の歴史”という有名な本にありますが比較文化的に考えて、イタリアでは、詩・ダンテ神曲・ルネサンス・聖書・神話というテキスト、日本では、色々な源氏物語などの物語に加えて、俳諧というテキストが、プロダクト作家(当時のインテリ・文化人・豪族?)に、具体的に影響を与えているといえます。 さて、一般にバタフライとはどのようなイメージでしょうか。儚くて(長寿ではなくて)、綺麗・妖艶です。昆虫が光や炎に群がる場面を怨念として表現する場合もあるくらい、(これは蛾なのでちょっとちがうかもしれないけど・・・)妖しい魅力もあると思います。日本ではさらに女性の幽霊とか、そういう物語が多いです。それにしても飛んでいる蝶というのは、ミステリアスなイメージがあり、ドラマチックです。 ルネサンスでは、ボッティチェリやダビンチなどで花が、空中に舞いおりて止まっているような技法が発明されましたが、これはエクスタシーとされます。こちらでは蝶は舞うのでこれと同じように、華やかで美しい瞬間のイメージを持ちます。天使も舞いますね。荘子の胡蝶の夢では、(紀元前の!)中国の蝶のイメージもありますが。 もっと、イメージ的に考えると、少し冒険的な見方もできます。ダンテの神曲というのは3部に分かれているのがこの時代のイタリアの作曲家などには常識的に知られています。地獄篇inferno、煉獄篇、天国篇、という様に作られており、一番初めに、ウェルギリウスとダンテがわざわざ一番下まで降りて言って、地獄の下からあがっていく構成になっていて、プッチーニは後にこれにあてはめて、オペラ外套・修道女アンジェリカ・ジャンニスキッキを書いているのですが、虫→サナギ→蝶になる、飛んでいってしまう華やかな蝶になるまでの3段階というのは、神曲を読んだことがある人にとっては、”神曲の3段階を容易に想像できる”のでロマンチックなことが起こりそうな天国での出来事というような(うーん、そもそも夢であるというようなマサユメのような)、ことまで、考えられますが、どうでしょうか。(それくらい、ダンテの神曲は、西洋の作家が自分で料理してみたくなる題材のひとつ) このように、バタフライというのは表題として、詩に季語が反映されるような様式の一端を示していて、西欧であまり登場しない、はかない(sogno夢)、新しい、天使であって、ヒロインになりうる、印象的で、なおかつ、斬新なアイデアだったのではないかと思います。 下崎響子

”蝶々夫人について” ~初演とその成り立ち・音楽のことなど~

~~~私たちの蝶々夫人のサイトにきて下さって、ありがとうございます。~~~ 今回、コミュニティオペラは、マダムバタフライを公演する運びとなりました。 ~~~蝶々夫人のイベントに参加出来とても嬉しく思います。~~~ 蝶々夫人は、始めジョン・ルーサー・ロングが1897年に小説を発表。 アメリカ雑誌センチュリーマガジンに翌年掲載され、2年後雑誌を見たデイビッド・べラスコが、演劇台本へ戯曲化しニューヨークで成功、ロンドンで上演し、さらにこれに目をつけた、プッチーニが、べラスコに説得をかさね、この時代最高のオペラ台本作家のルイージ・イッリカとジュゼッペジャコーザによってオペラ台本化され、ジャコモ・プッチーニが、1904年までに製作し音楽を付けたものです。 G.プッチーニは、多くのオペラ作曲家の中でも、とりわけ台本の韻律と、メロディーを合わせるのが突出して優れた作曲家です。 例えば、モーツアルトのアリアより、韻律とアリアのメロディーの関係は優れています。 台本は現代以前は、11音節の韻律でかかれているもので、場合によって5、6、7、9音節を使い分けますが、この時代はリコルディ社も言うように、台本作家が非常に優れています。 プッチーニオペラのイッリカやジャコーザの歌詞をそのまま読む場合、すでに曲のリズムになっている場合が多く、台本作家が製作したリブレットのリズムをプッチーニが素材として最大限生かしている点にも非常に感動します。 たとえば、皆さんご存知の、ボエームのミミのアリアはその中でもよく出来ていて、台本のリズムとメロディーのリズムを、限りなく相似させるように、整えています。 台本の2人は有名な当時の台本作家で、イッリカが言葉を詩的に(アリアにあうような雰囲気のことばで書く)プロでした。 このように、有名なアリアは、非常に手がかけられ、詩のリズムが既に素晴らしい場合が多いです(例えば、リゴレットのアリアも同じく!!”ラ・ドンナ・エ・モービレの6音節詩”) プッチーニはイタリアから見た、中国や日本など、オリエント情緒をオペラに持ってくるのに成功した作曲家でもあります。1900年代初め、印象派や、日本が2回参加した万博(パリ万博)など、東アジアへの憧憬が欧米で深まり、当時東洋といえば、モードだった訳です。 オペラ音楽ではトゥーランドットや、蝶々夫人が代表的となりました。 私たちは、蝶々夫人のオペラの中で、”さくら”、日本の国歌、邦楽曲のメロディーを聞く事が出来ます。プッチーニはあちこちの曲から、日本をちりばめたようです。 見た目では今回のコミュニティオペラでは、全員がコスチュームとして本物の着物を着て 日本髪を結うことになっており、まさに見た目でも日本をちりばめる予定です。 近年、イタリアの野外劇場で蝶々夫人が上演された際、月が昇ってさらに日本的だった事があるようですが、このように、”日本的なものというひとつのブランド”は、現代においてもとても面白いものだと思います。 さて、プッチーニに戻りますが、プッチーニはオペラを書く場合、可憐で若い悲劇におちいってしまうキャラクターをとても大事にします。 コメディオペラにおいても可憐で若い女性、トスカ、トゥーランドットではリュー、ボエームのミミ等。 蝶々夫人は、日本の封建的な美徳も表した雰囲気の中で、さらに悲劇におちたヒロインを、構成しています。 プッチーニはそれまでの有名オペラ作曲家、ロッシーニなどと違って異国情緒を書く際、単なる憧れや面白さのみとしての素材でなく、特に随所丹念に調べた上の、リアリティ探求の作曲家である為、合唱部分は、日本らしい雰囲気が、他の作品に比べてよく出ています。 しかしながら、面白いのは、有名なこのオペラも、スカラ座で初演した際、日本風の衣装、いろいろな部分の練習が、歌手たちにはむずかしく、プッチーニ自身がなだめながら進めたという面白い逸話があることです。イタリア人達がいくらスカラ座の大プロ達であったとしても、1900年入ってすぐに突然日本の物語を演じるのは衣装なども、とても大変だったと思います。 蝶々夫人が、1900年代の作品にしては、非常にリアルな部分が多く、何かとリアリティに満ちている理由は、この作品がアメリカ・イギリスでかなり演劇で成功をおさめ、演劇台本としてかなり、手が加えられていた点があげられるでしょう。 ヴェルディがシェイクスピアの台本にオペラをつけていることからもわかるように、演劇・ドラマ・台本という土台に、既に歴史があるという蝶々婦人の個性が感じられると思います。 今回はコミュニティオペラという事で、日本庭園での演奏を目標に、コスチュームの着物など、多くのかたがたのご支援を得て、バタフライ上演に取り組んでいます。わたしたちも、日本的なものをよくみつけながら、ぜひ面白い舞台にしたいと願っています。 では、お楽しみに。 今年からアメリカでオペラを勉強しています、今回は合唱に参加させて頂きます。 下崎響子

自由気ままにオペラ パート2

皆様 こんにちは。自由気ままにオペラパート2は、スイス、チューリッヒにあるチューリッヒオペラハウスのお話です。このオペラハウスはヨーロッパでもトップクラスに入り、チューリッヒ湖のすぐそばに佇むとても優美なオペラハウスです。ワーグナーがチューリッヒで活動中だった1834年に劇場ができ、その後、火事にあいましたが1891年に再び設立しました。座席数は1100とそれほど大きいオペラハウスではありませんが演目数も多く、ドイツものはもちろん、イタリアものとなかなか日本やアメリカではやらなさそうなもの、ヤナーチェク、シェーンベルグなど上演しており興味深いです。今はすっかり人気者のなってしまったテナーのカウフマンもこの劇場で若い頃(今も若いですが)ワーグナーのレパートリーをよく演じていたとのこと。そのころの彼の髪型は不思議で笑ってしまうのですが、聞いてみたかったな〜。 私が観劇したのは“カヴァレリアルスティカーナ”と“道化師”の二本立てでした。この2つはヴェリズモオペラを代表する演目でよくこの2本はセットで上演されています。このヴェリズモ オペラとは19世紀後半に起きた運動“ヴェリズモ(現実主義)”がもとになったもので事実真実をありのままに表現する、という考えがもとになっています。特徴としては管楽器を生かした聴衆の感情に直接訴えかける表現がおおく、歌のほうも表現力がとても大切になってきます。 カヴァレリアルスティカーナはイタリアのシチリア島が舞台で間奏曲がとても美しくて有名ですが、この日私はテナー(トリッドウ役)のホセクーラに注目していました。彼はその何ヶ月か前に同演目を違う場所で演じていてとてもレビューがよかったので期待が高まりましたが、たしかにこういう熱い感情を表現するのに彼の声はあっているのですが少し相手役のサントッツアが役不足というか、トリッドウとのからみの部分を速く飛ばしすぎてもうちょっと聞かせてほしかったな、と思いました。一番の聞かせどころなんですから。次の道化師のほうはクーラの演技がさえて、少し狂気がかっているカニオの様子がなにか悲劇がおこりそう!と最初から予感させてくれて、楽しそうにしてる部分も逆に怖い感じがして、リアリティがよく出ていました。アリア“衣装をつけろ”も裏切られたことに対する屈辱、葛藤、あきらめの感情が非常によく表現されていて、共感を呼びました。ネッダとシルビオのデュエットも美しく、この日はカバレリアに比べ道化師のほうがだんぜん歌の部分でも演技の部分でも優れていて、たしかにまったく違うオペラではあるのですが、2本続きで演じて完成度がこんなに違うものか、と驚きました。 次は音楽の都ウイーンからウイーン国立歌劇場のお話です。

オペラブログー自由気ままにオペラその1 by ネコママ

オペラと聞いて“面白そうだけど、よくわからない”と思ってしまう方は大勢いらっしゃると思います。実は私もその一人でした。でもよく解らなくても、聞いていると、またはオペラハウスに足を運ぶようになると楽しみが解ってくるというのがオペラというものだと身をもって経験しました。例えば“ああ、ブレスはここでしたら全然このフレーズが生きてこない”とか“あそこの最後のキーは譜面通りじゃないな”とか最初からいろいろ考えなくても楽しめるのです。でもやはり観劇するにあたっては予習をしておくと、おかないのでは楽しめるレベルが変わってくるのも事実というところ。この場合の予習とはあらすじ、注目のアリア、デュエット、重唱などを聞いておく事、になりますが、私はなるべく時間がある限りDVDを見ておくようにしています。なぜかというと、時々有名なアリア以外に美しい場面、音楽を発見することがあり、それが楽しみなのです。 このブログで少しでも読んでくださる方(特に初心者の方)にオペラの楽しさが伝わればいいな、と思い今回はヨーロッパのオペラハウスの経験談ををもとにブログを進行させていただく予定です。それではますオペラの黄金時代に輝かしい歴史を築いたオペラハウス、イタリア、ミラノにあるスカラ座から始めさせていただきます。 スカラ座というと、ヴェルディが“ナブッコ”をここで初演し、当時オーストリア支配下のイタリアで大絶賛をうけ、囚われているユダヤ人が祖国を思い歌う合唱は特に抑圧されているイタリア人の共感を呼び、イタリアの統一運動とも連動したことで有名です。指揮者では特に有名だったのはアバド、ムーティで彼らの時代はスカラ座は最高峰の上演をするということで評価をうけていました。私がスカラ座に観劇に行きましたのは数年まえの夏でしたが、猛暑で日中は日が照りつけていて、歩くのもちょっと苦しいという状態でした。でも7時ごろになり、少し涼しくなってくると、どこからともなくサテンのドレスを装った女性たちがスカラ座の前に現れはじめるのです。夏だったのでみなさんカラフルでアクセサリーもちょっと大胆なもの、靴はハイヒールにアクセサリーがついてるものにクラッチバックとおしゃれ心たっぷりで、さすが、ファッションの国イタリアです。男性も少し細身のテーラードのジャケットに細身のネクタイをしている方や、ミラノ風、粋なくずし方をしてシャツの柄が変わったものや、全然違う素材のパンツ、ベルトで合わせている方など見ていて楽しい限りです。スカラ座のとなりにはスカラ座のミュージアムがあり、昔の歌手の衣装や、観客の衣装(羽のついた小さなうちわ、仮面舞踏会のようなマスクもありました)オリジナルの譜面、などなどたくさん興味深いものがあります。 オペラハウスの中に入ると、まずはドリンク、ということでみなさんバーカウンターでシャンペンなど注文されています。このバーはBALL ROOMと隣接していて、というかその一部になっている形で昔はここで、観客はSOCIALIZEしたりDANCEしたりと楽しんだのでしょう。大きな鏡やかわいいアンティークのソファなどがところどころにあり、みなさん談笑しています。 この日観たのはヴェルディの後期の作品“アイーダ”でした。古代エジプトが舞台で恋愛関係にある、エジプトの武将ラダメスと奴隷アイーダ(実はエジプトの敵国エチオピアの王女)、ラダメスに恋するエジプトの王女アムネリスとの三角関係に政治的策略、対立、葛藤がからみスケールの大きな舞台になっています。私はこの日席が上のほうであまりよく見えないかもしれないと心配でしたが、劇場自体は割りとこじんまりしていて、馬のひづめの形に客席が配置されており、私たちが座ったのは3階の前のほうでしたが十分舞台はよく見ることができました。各座席の前の部分にスクリーンがついており、英語で字幕がみることができます。スカラ座の劇場の中はとにかくベルベットのカーテンをふんだんに使って、そのカーテンにもいろんなディティールがついているので劇場自体がまるで華麗なドレスのようになってます。このオペラで私が注目するのは王女役アムネリスで、この役のできによってかなり話の深さが変わってきます。しかし今回はアイーダ役のほうが勝っていて、最後のラダメスとのデュエット“大地よさらば”は特にすばらしかったです。このとき舞台は上下二段に別れていて地上で嘆き悲しむアムネリスと地下で一緒に幸せを感じながら死んでいく、ラダメスとアイーダの対比がよく解るように演出されていました。オケもしっかり重厚でまとまった音を出していて、2幕のスペクタルのシーンではバレリーナ達が美しいバレエをみせてくれました。音楽は1幕からエジプトのエキゾチックなフレーズが流れ、このフレーズはところどころで何回も出てくるのですが、聞いているほうに違うディメンションを感じさせてくれます。 次回はスイス、チューリッヒオペラハウスのエピソードになります。次回はもう少しオペラの内容にふれる形で進行します。

蝶々夫人物語(1)蝶々夫人のモデルは誰か by 中村亜起子

蝶々夫人のモデルとして有力視されているのは、幕末から明治にかけて活躍したイギリス商人トーマス・グラバーの妻となった談川ツルである。その理由としては、ツルが外国人と結婚していたこと、格式の高い士族の出身であること、蝶の紋の着物を好んで着用しており外国人の訪問客に「お蝶様」と呼ばれていたこと、グラバー邸から見渡せる美しい港の景色がアリア「ある晴れた日に」を彷彿させることなどがある。 談川ツルは徳川御三家の一橋藩士の家の出であり、大阪より豊後(大分県)の武田藩に嫁ぎ一児センをもうけるものの、その後竹田藩が佐幕派から倒幕派に変わったため、ツルはセンを婚家に残し離縁を申し渡された。これはツルが17歳の時のことであり、奇しくも舞台での蝶々夫人がわが子をピンカートンに託す決意を下す年齢と同じである。ツル及びツルがグラバーとの間になした子息に関しての研究は、センの孫にあたる国鉄職員であった故野田兵之助氏とその令嬢野田和子氏により、詳細な調査がなされている。 グラバーは1859年に上海経由で長崎にわたり、薩摩藩及び長州藩を中心に貿易を行った大英帝国の御用商人である。当時イギリスは世界の貿易権をめぐり、フランスと熾烈なライバル関係にあり、徳川幕府と深い関係にあったフランスと対抗すべく、グラバーは反徳川の兆しの見える九州での立場を築きたい大英帝国の思惑を背負っていたものと思われる。グラバーは坂本竜馬、高杉晋作、伊藤博文、井上馨等とも深い親交があり、彼らの倒幕の精神を形成する上での深い影響力を与えた。後グラバーは三菱の顧問も勤め、岩崎弥之助もツルとは親交があった。岩崎に麒麟麦酒のビジネスアイディアを勧めたのはグラバーだと言われている。グラバーは晩年は東京で過ごし1908年(明治41年)、外国人として初めて勲二等旭日重光章を授与された。グラバーは大変な親日家であり、73歳で死ぬまで日本で暮らし、52歳でなくなったツルとの夫婦愛も全うした。1911年(明治44年)に死去。墓は長崎市内の坂本国際墓地にあり、妻のツルとともに埋葬されている。 ツルをグラバーに結びつけたのは、五大友厚という薩摩藩士である。五大友厚は高杉晋作の盟友でもあり、明治に入っては、大蔵省造幣局、堂島米商会所、大阪市立大学、住友金属、大阪三井商船、南海鉄道等を設立し、後に渋沢栄一と共に日本の経済界の親として知られるようになる人物である。 ツルはグラバーとの間に一男一女(富三郎とハナ)を設けた。ツルの息子は倉場 (グラバー) 富三郎として知られ、学習院を卒業後、アメリカの名門ペンシルベニア大学で生物学を学び、帰国後長崎汽船漁業会社を創業し、トロール漁業法を日本に導入し、水産動物の図譜「グラバー図譜」を出版した。第二次世界大戦中は混血であるという理由のみで、スパイ嫌疑をかけられ投獄され、1945年、故郷の長崎の原爆投下を自身で体験した後、長崎の自宅で自殺し、その数奇の一生を終えた。富三郎の墓は父母のグラバー夫妻の隣、港を見下ろす墓地に埋葬されている。自己の著作の学術書はすべて渋沢栄一の孫である渋沢敬三子爵に遺言で残し、渋沢敬三はすべての倉場富三郎の著作を長崎大学の水産学部に寄贈した。 オペラ蝶々夫人が基にしている短編小説の著者ジョン・ルーサー・ロングは、アメリカの弁護士であり、日本に来たことは一度もなく、メソジストの宣教師として赴任した姉夫妻からの覚書を基にして、蝶々夫人を執筆した。富三郎とハナは長崎のメソジストのミッション系の学校に通っていた。舞台の蝶々夫人のように、ツルもキリスト教の信仰に生きた女性であるとは容易に推測できるであろう。幕末維新の激動期、尊王佐幕、開国攘夷、やみくもなる西欧化近代化への傾倒、それに手のひらを返すような反米の日本帝国主義、混血に対する差別、子供との生き別れ等、多くの激動と苦しみを経験しつつも、信仰と生きる本能、そして自分の運命を受けいれることにより、激動の人生を生き切ったツルの強さが、オペラ蝶々夫人の感動の底に今も流れていると言えるだろう。