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10
Jan

Yoshiの花街すれ違い懐古録 その②「学童編」

さて、皆様の御正月は如何でしたか?ここシリコンバレーにおりますと日本のような正月気分にはほど遠いですが、それでも御雑煮くらいは頑張って家の奥様も作ってくれます。ご存知かも知れませんがYoshiの出身地大阪は白味噌の御雑煮で、神奈川出身の家の奥さんはお澄まし仕立てです。元旦の朝にどちらの御雑煮からスタートするかで昔は若干揉めましたが、今では朝が白味噌仕立て、夕餉がお澄まし仕立てで落ち着くようになりました。ところで、蝶々夫人の長崎では、塩ぶりを使った澄まし仕立てが昔から一般的だそうですね。蝶々夫人も芸者に出る前には御母さんの作ってくれる添付WEBのような御雑煮を食べていたのでしょうか。

http://www.mirokuya.co.jp/s/nagasaki/7.html

白味噌仕立ての御雑煮の話で思い出しましたが、Yoshiの実家はそこそこの商家で、父親が結構食材にうるさく、御雑煮の白味噌は「生野」(多分父親の使っていた料亭名だと思います。)の特製品でないと駄目だとか、米はその当時まだ銘柄米など余りなかった時代から、宮城の「ササニシキ」でないと駄目とか非常に拘っておりました。また、我が家の元旦恒例の儀式の話しで恐縮ですが、これを人に話すと「絶対変!」と言われるのですが、敢えてばらしましょう。父親は元旦の朝食が終わると、自室にこもり、暫くして5人の子供達(何と全員男子でしたが)を一人ずつ自室に呼びいれ、「今年はいくらお年玉を要求するか。また、その金額の妥当性を担保する、昨年の行い及び今年の抱負について述べよ。」(まあ、その当時はもう少し子供に分かるような言い方をしたとは思いますが)とお年玉を渡す前に問いただします。無論、最初から与えるお年玉の金額は、「昨年度の実績プラスCPIカバー」か何かで既に父親は決めているのでしょうが、その数字の刷り合わせ、及び子供にはそれに対する見返りのコミットメントを表明させるのが慣わしでした。これではまるで労使交渉ではなかったかと大学くらいになってから思いましたが、結構元旦の来るたびに緊張したことを覚えております。特に昨年もらった金額を覚えていない兄弟には、かなり厳しい裁定があったように覚えております。因みに2番目のYoshi少年は結構要領よく、短時間でこの「親子交渉」を済ませ「へへへ」などと笑いながら緊張して待っている年下の兄弟を尻目に御札の勘定です。他の兄弟からは「お前はずるい」とか言われておりました。

前置きがいささか長くなりました。このままではお年玉の話で終わってしまいそうなので、Yoshi少年の小学校時代の友人の話をしたいと思います。彼(N君としましょう。)とは結構親しく、小学校の直ぐそばにある長屋(隣が壁で繋がっているタウンハウスのようなもの)の風情のある町屋に住んでいましたが、小学校が近いこともありよく遊びに行きました。何度か休みの日にも遊びに行ったこともありまして、たまには夕食などをN君の御母さんから遊び仲間と一緒に頂いたこともありました。N君の御母さんは、少なくともYoshi少年の家の「オカン」よりは子供心にも艶っぽく見え、何となく優しかったことを覚えております。ただ、いつ行っても御父さんがいらっしゃらない。小学生くらいだとYoshi少年と言えども無論素直ですので、聞いてしまいました。「何で、いつも君とこ、おとうちゃんおらへんの?」N君はちょっと言いにくそうでしたが、「うん、僕とこのおとうちゃん、いつもおらんで、たまにひょいと来はんねん。」そうなのです。後年気付いたのですが、彼の御母さんは今では死語かも知れませんが、所謂「2号さん」というポジションで、その風情から恐らくその出自は芸者さんか、それに近い方(高級料亭の仲居さんとか)ではなかったかと思います。後になって高校か大学時代の小学校の同窓会でそのN君と再開したときは、彼の苗字は変わっており、またお母様はやはり老松町界隈のある料亭の女将になられたと伺いました。今になって思うのですが、そう言えば老松町界隈にはそのような雰囲気の御宅がここかしこにあったような記憶がありますし、街全体がそんな感じで、その雰囲気全体を受け入れるような感性があったように思います。そんな、雰囲気の場所で成長するとどうなるかって? そうです。Yoshiや「老松亭白奴」のようになるのです。

次回は、社会人になり、花街を大阪の老松町から東京の柳橋に移して、少々おしゃべりしたいと思います。それでは本日はここまでにしたいと思います。

文責 老松亭白奴