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30
Dec

Yoshiの花街すれ違い懐古録 その①「幼少編」 by 老松亭白奴

Community OperaのメンバーであるYoshiと申します。今回の「蝶々夫人」では結婚斡旋屋のGoroさんの一幕の場面を演じさせて頂きます。一応今回はブロガーとして登場しますので、ペンネームもありまして、幇間(男芸者)や噺家を気取り、「老松亭白奴」(おいまってい!しらやっこ)とさせて頂きます。

ところで、この蝶々夫人自身の出自であり、また本オペラのかなり部分を占める「芸者」(Geisha)の意味やその生態は、外国人はもちろんのこと、我々現在を生きる日本人でさえも余り実体験で掴んでいないというのが実情ではないでしょうか? 京都の舞妓さんなどは今も華やかで、しっかりとした京都の観光資源ではありますが、本来の意味の芸者は既に日本の社会でも「絶滅危惧種」の趣もありそうです。即ち、大方の日本人も自分の皮膚感覚で「芸者さんとは何たるか?」を掴んでいないし、実生活でも芸者さんに関わる場面も余りなさそうです。そんな観点で、当方の拙い過去の経験からこの芸者さん達、あるいは芸者さん達の生息する「花街」界隈の経験談、というより「すれ違った経験」を披露させて頂くのも一興かと思い筆を(いやタイプを)取りたく思います。

Yoshiの出生について:芸者の話をするのにYoshiの生まれなどどうでもよいとお思いでしょうが、これが少々関係あるので聞いて頂きたく。小生は漫画の「三丁目の夕日」等でおなじみの昭和30年代に、大阪は南の道頓堀に並ぶ繁華街である北の新地の東側に隣接する老松町で幼少を過ごしました。北の新地は御堂筋にほど近いのですが、そこから御堂筋を東に超えた地域に天満の天神さんの表参道でもある老松町と呼ばれる通りがありました。(因みにこの天満の天神祭りは日本三大祭りと呼ばれており、実家の前を御神輿行列が通ります。)この界隈は商家と町屋が混在する風情のある町で、大正・昭和の初期には文化人や商家の大棚が住まわれておりました。現在でもその風情は「老松骨董通り」(下記URL参照)として親しまれており、古物の価値が分かる町として未だに知る人ぞ知るというスポットではあります。私の母親はまだこの老松町(今の住居表示では風情のない西天満と呼ばれておりますが)の町屋に一人で住んでおります。ここは2階建ての町屋に改造を重ねた為、部屋数大小12くらいあり、まるで忍者屋敷のように入り組み、未だに入ったきりまだ出てこない人もいるとか。

http://www.st-city.jp/blog/2010/12/post-102.html

そんな由で、近所には当時の大棚・実業家が集う高級料亭もあり、そこに出入りする芸者さん達の置屋(芸者さんのProduction事務所のようなもの)もありました。その頃は小生は幼稚園に上がるか上がらないかの頃だったと思いますが、夜8時-9時頃になると良い子の私は寝かしつけられておりました。そんな夜半、近所から聞こえてくる三味線の爪弾き、これは多分「半玉」(芸者の玉子・見習い)に稽古をつけているやはり芸者上がりの御師匠さんの爪弾きだったのですが、これが子供心に物悲しく聞こえ、なかなか寝付けなかったことを覚えております。今、この実家に帰ると夜半には近くのカラオケバーから下手な演歌がもれ聞こえ、今度は違う意味で寝付けないことが多々有ります。本当に、今の老松町には風情も何も残っておらず、こんな下手な演歌なら、自分が行って聞かせてやろうかと思う次第です。

さて、当時の老松町のお昼過ぎくらいに、家の周りを歩いておりますとこの粋筋の芸者さん達が、近所の御風呂屋さんから着流し姿で歩いていたような記憶もうっすらと残っております。それが粋筋かどうかなどは、今記憶をたどってそう思うわけで、その頃に粋筋が分かっていた分けではありません。(念の為)何?粋筋と分かったら追いていちゃうって?

いや今、思うにつけ小生は男にとって結構いいところに住んでいたのだなと、大人になってあの時代のあの辺りにタイムマシンに乗って帰りたいとつくづく思う次第でございます。

次回は小学校時代のやはりこの界隈に纏わる御話をさせて頂きたいと思います。

文責 老松亭白奴