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30
Dec

蝶々夫人物語(1)蝶々夫人のモデルは誰か by 中村亜起子

蝶々夫人のモデルとして有力視されているのは、幕末から明治にかけて活躍したイギリス商人トーマス・グラバーの妻となった談川ツルである。その理由としては、ツルが外国人と結婚していたこと、格式の高い士族の出身であること、蝶の紋の着物を好んで着用しており外国人の訪問客に「お蝶様」と呼ばれていたこと、グラバー邸から見渡せる美しい港の景色がアリア「ある晴れた日に」を彷彿させることなどがある。

談川ツルは徳川御三家の一橋藩士の家の出であり、大阪より豊後(大分県)の武田藩に嫁ぎ一児センをもうけるものの、その後竹田藩が佐幕派から倒幕派に変わったため、ツルはセンを婚家に残し離縁を申し渡された。これはツルが17歳の時のことであり、奇しくも舞台での蝶々夫人がわが子をピンカートンに託す決意を下す年齢と同じである。ツル及びツルがグラバーとの間になした子息に関しての研究は、センの孫にあたる国鉄職員であった故野田兵之助氏とその令嬢野田和子氏により、詳細な調査がなされている。

グラバーは1859年に上海経由で長崎にわたり、薩摩藩及び長州藩を中心に貿易を行った大英帝国の御用商人である。当時イギリスは世界の貿易権をめぐり、フランスと熾烈なライバル関係にあり、徳川幕府と深い関係にあったフランスと対抗すべく、グラバーは反徳川の兆しの見える九州での立場を築きたい大英帝国の思惑を背負っていたものと思われる。グラバーは坂本竜馬、高杉晋作、伊藤博文、井上馨等とも深い親交があり、彼らの倒幕の精神を形成する上での深い影響力を与えた。後グラバーは三菱の顧問も勤め、岩崎弥之助もツルとは親交があった。岩崎に麒麟麦酒のビジネスアイディアを勧めたのはグラバーだと言われている。グラバーは晩年は東京で過ごし1908年(明治41年)、外国人として初めて勲二等旭日重光章を授与された。グラバーは大変な親日家であり、73歳で死ぬまで日本で暮らし、52歳でなくなったツルとの夫婦愛も全うした。1911年(明治44年)に死去。墓は長崎市内の坂本国際墓地にあり、妻のツルとともに埋葬されている。

ツルをグラバーに結びつけたのは、五大友厚という薩摩藩士である。五大友厚は高杉晋作の盟友でもあり、明治に入っては、大蔵省造幣局、堂島米商会所、大阪市立大学、住友金属、大阪三井商船、南海鉄道等を設立し、後に渋沢栄一と共に日本の経済界の親として知られるようになる人物である。

ツルはグラバーとの間に一男一女(富三郎とハナ)を設けた。ツルの息子は倉場 (グラバー) 富三郎として知られ、学習院を卒業後、アメリカの名門ペンシルベニア大学で生物学を学び、帰国後長崎汽船漁業会社を創業し、トロール漁業法を日本に導入し、水産動物の図譜「グラバー図譜」を出版した。第二次世界大戦中は混血であるという理由のみで、スパイ嫌疑をかけられ投獄され、1945年、故郷の長崎の原爆投下を自身で体験した後、長崎の自宅で自殺し、その数奇の一生を終えた。富三郎の墓は父母のグラバー夫妻の隣、港を見下ろす墓地に埋葬されている。自己の著作の学術書はすべて渋沢栄一の孫である渋沢敬三子爵に遺言で残し、渋沢敬三はすべての倉場富三郎の著作を長崎大学の水産学部に寄贈した。

オペラ蝶々夫人が基にしている短編小説の著者ジョン・ルーサー・ロングは、アメリカの弁護士であり、日本に来たことは一度もなく、メソジストの宣教師として赴任した姉夫妻からの覚書を基にして、蝶々夫人を執筆した。富三郎とハナは長崎のメソジストのミッション系の学校に通っていた。舞台の蝶々夫人のように、ツルもキリスト教の信仰に生きた女性であるとは容易に推測できるであろう。幕末維新の激動期、尊王佐幕、開国攘夷、やみくもなる西欧化近代化への傾倒、それに手のひらを返すような反米の日本帝国主義、混血に対する差別、子供との生き別れ等、多くの激動と苦しみを経験しつつも、信仰と生きる本能、そして自分の運命を受けいれることにより、激動の人生を生き切ったツルの強さが、オペラ蝶々夫人の感動の底に今も流れていると言えるだろう。