Yoshiの花街すれ違い懐古録 その⑤「おさらい会編&最終編」

皆様、大変ご無沙汰しておりました。実は小生も今回の震災に日本出張時たまたま東京、飯田橋駅構内におりまして遭遇しました。幸いにも何とか歩いてホテルに帰ることができましたが、それから数日の東京での余震・停電などの何とも言えない雰囲気はほんの少しですが体験させて頂きました。 それ以来、本当に被災地の皆様のご状況を思いますと言葉も出ず、ましてやこんな「おちゃらけた」ブログなど書けるような気持ちにはなりませんでした。月並みで恐縮ですが被災地の皆様には心より御見舞い申し上げます。実はこのブログでもご紹介しました小生の「親父様」の事業を継いだ長兄の東北工場が福島、二本松近辺にあり、原発の50km内地域でもあり大変難儀をしているとのことで、遠く離れたカリフォルニアにおりますが、本当に身近にこの大災害を感じておるつもりです。 そんな分けで、4月2日の蝶々夫人の本番前までにはこのブログも大体終えようと目論んでいたものが、本番後までずれ込んでしまったことお詫び申し上げます。震災当日より早2ヶ月を数え、漸く少々おちゃらけた文章でも、完結させなければとやっとキーボードに向かった次第です。 話は変りますが、4月2日(土)のサンタクララ大、リサイタルホールでの「蝶々夫人」の公演は、お陰さまをもちましてほぼ満席となり、大好評のうちに幕を閉じることができました。これも皆様のご厚情によるもので、この場を借りまして一座を代表し(勝手に代表するなと言われますが)、御礼申し上げます。私事ながら老松亭白奴演じる一幕のGoroも若干ドジも踏みながらも、何とかそれなりにこなし、ちょっとはお客様の笑いも(クスクス程度でしたが)取る事ができたように思います。友人に聞くと「あれ以上やったら、蝶々夫人が都蝶々か吉本蝶々になるで。あの程度でやめといて良かったぞ。」とのことでした。 また、お陰さまついでですが、この公演のある程度の成功の為、また関係者のご努力の結果、次回は9月9日(金)の夕刻、San Francisco Operaが初めて蝶々夫人を上演した由緒あるSaratoga市の「箱根ガーデン」においてFund Raising での演目として我々の蝶々夫人が再演されることが光栄にも決定されました。そちらの方ではDinner Showの形を取りますので、内容が少々圧縮され、1時間程度のショートプログラムとなり、また配役も若干代わって来ますが大方はオリジナルメンバーとなる予定です。 それでは宿題の「清元のおさらい会」の話ですが、要すればこれも清元を教える師匠がその旦那衆的弟子たちにスポンサーさせて清元を主として演じるDinner Showのようなものです。Yoshi青年も親父様に「会費」の祝い袋など持たされて一応「おさらい会」にいやいや、どきどきしながら出席しましたが、案の定Yoshi青年がどう考えても2廻りくらい以上は年上の年齢層の社長然とした方ばかりの御集まりではありませんか。やはり師匠の弟子である芸者の御姉さま方に案内され、丸い御座敷テーブルに着きましたが周りの恰幅の良い旦那衆連中との名刺交換も気が引け、身の置き場なく正座しておりますと、そこはそれ御姉さま連中がどんどんお酌をしてくれます。やはり、若いだけの取り柄でしょうか、立ち代り御姉様方々が御相手をして頂けます。いつもの様に、旦那衆の厳しい目線に耐えながら一杯やっておりますと、やおら三味の音が鳴り響き、一段高い舞台で綺麗どころの踊りと清元が始まるのです。「良かった。この旦那衆の清元を聞かされるのではないのだ。」やっと一息ついたYoshi青年です。同じ師匠の弟子と雖も、プロの芸者さん達の弟子が歌っており、それなりにShowの体裁が華やかでもあり、御座敷芸を見ている限りは旦那衆と話をする必要もないので何とか助かったと思うYoshi青年でした。でも清元の出し物が終わったところで、Yoshi青年はすすっとおトイレに行くような様子で消えてしまったように覚えております。 帰りの道すがら、今夜もえらい経験をしたが、それはそれとしてYoshi青年は普段やっているコーラスの発声と清元の発声はどうしてここまで違うのかと柳橋の袂を歩きながら物思いに耽っておりました。コーラスを含む西洋型の発声法は、声楽の専門になってくるとベルカントやリートや、グレゴリオ等の発声方法もありますが、いずれにしてもナチュラルなビブラートを許容しますし、また自然にビブラートが入る方が音に伸びがあるというか、排気量がセーブされ、省エネで音が伸びるようにも思います。ところが清元を初めてする日本型の謡曲はほぼノンビブラートの棒音というか、一本音です。コブシは必要でもビブラートは認めません。コブシとナチュラルなビブラートは全く別物です。Yoshi 青年は清元のお師匠さんに口稽古をつけて貰う時、いつも自然に出てしまうビブラートを注意されました。小生の勝手な比喩ですが、人間の発声装置を提灯に例えますと、ビブラートはある程度引き伸ばした提灯が風に揺れて上下に少々伸び縮みして自然に揺れる感じ。一方の謡曲は提灯を枠の大きさまで折り畳み、その折り畳んだ提灯を手裏剣の様に目的に向かって投げるような感じでしょうか?とにかく全く違うのです。西洋の方でも一時流行したブルガリア地方特有の女性のノンビブラートコーラス・地の歌というのを「芸能山城組」が主催してやっていらっしゃいました。これはビブラートという末尾音の装飾音を排除し、より土俗的な鋭角な和声(どちらかというと不協和音ですが)を実現したものでした。そう言えば、グレゴリオ的な宗教音楽も全くビブラートがないものもあったと思います。その方がより神秘的で鋭角的な和声になっているように感じました。まあ、ビブラートの話はさておき、清元の稽古の後に、コーラスの練習に出るとYoshi青年はテナーパートですが、高音がいつもよりすっとアタックできることに気が付きました。いつもよりかなり幅の狭いちょっと「雄たけび」に近いようなアタックでしたが、下から這い上がるような感はなく、ぽんと高音に手が届く感じでした。でもこの発声音が他の連中にピッチとは馴染まないのですね。良く言えば、テナーの中に「細川たけし」が一人混じっているようなそんな感じ。 いろいろ話があちこちに飛びましたが、これにて「Yoshiの花道すれ違い懐古録」の御話を一応終わらせて頂きたいと思います。 その⑤まで御付き合い頂き、ブログ執筆者としましては、喜びひとしおでございます。 このブログ自体はCommunity Operaが「蝶々夫人」を続きえる限り、多分続くと思いますので、また何か違う演題にて、御話をさせて頂けることが出来れば幸いでございます。 それでは皆様、御達者で。 文責 老松亭白奴

Yoshiの花街すれ違い懐古録 その④「お茶屋編」

皆様、暫くご無沙汰しておりました。このコミュニティーオペラのメンバーの大半が所属している同じくシリコンバレーの混声合唱団である Choral Cosmo の定期演奏会が最近あったものでブログを更新する時間がありませんでした。でもちょっとご無沙汰している間にこのブログもかなり高尚なトーンになり、このようなおちゃらけた駄文を書いていては怒られるかもしれないと思いつつも、性懲りも無くタイプをまた叩いちゃいます。 さて、Yoshi青年は生真面目と言うか、怖い親父様に逆らえないというか、ほんとに真面目に「柳町の清元のお師匠さん」のところにせっせと通っておりました。話は飛びますが その頃のYoshi青年のカラオケの18番は「隅田川」(東海林太郎ではなく島倉千代子のバージョン)でありまして、特に主人公の芸者が「ああそうだったわね。。。。私が清元の稽古から帰ってくると。。」というクダリを言うときのしぐさが、かなり本物になって来たのを覚えております。何せ、その通りの状況なのですから。(無論芸者ではありませんでしたが) 暫く清元の稽古に通っておりますと、また突然親父様から連絡あり「御茶屋に行くのでお前も柳橋に来い。」というものでした。何でわざわざ御茶を飲みに柳橋まで行くのか? 御茶なら喫茶店でいいではないか?などといぶかりながら、言われたところに行きますと、そこはまさに「御茶屋」でした。要するに、料理と芸者さんを出前で注文し、宴会(芸者を上げての)をする場所・宴席をそのように呼ぶと言うことを後年知りました。そこも風情はやはり格式のある玄関がちょっと分かり辛いような町屋で、今も神楽坂の路地裏を歩いていると路地を曲がった先にひょいと出くわすような佇まいでした。親子二人座敷で御茶屋の女将のもてなしを受けていると、「御免くださいませ」だったと思いますが、粋な言い回しのイントネーションで、「綺麗どころ?」が4人ほど入って来られるではありませんか。Yoshi青年どきどきして、胡坐から正座に座り直し、ちらっと視線を送ると、年の頃なら乳母桜、ひょっとしたらその頃の自分の母親よりも年配のお姉さま方だったように思います。もちろん、黒を基調としたきちんとしたお着物をまとい、白塗り(とは言っても舞妓さんよりは薄い)の御化粧で年齢不詳とはこのことですが、その怪しい魅力と鼻腔をくすぐる脂粉の香りにYoshi青年はくらくらしたような記憶があります。一体この設定は何でしょうね? 親父とこんなところで飲んでもかなりの出費のみ(無論親父持ちですが)で余り将来の商売にもなりません。多分親父様もそれほど「お茶屋遊び」に慣れた人ではなかったようですが、一応自分の命令で清元に通ってくれている息子を社会勉強も兼ねて労おうというものではなかったかと思います。本当言うと、労いなら御茶屋よりも銀座の高級バーの方に当の本人は行きたかったのですが、ここは清元に繋がる勉強ということでYoshi青年はその感性をオープンにして御席を楽しもうと心に決めました。「まあ、坊ちゃん、御足を崩してくださいませ。それじゃゆっくりできませんでしょ。」みたいな感じで、今では余り見なくなった、5ccも入れば満杯になるような御猪口に流れるような所作で御酒を入れて頂けます。その、差し方がさりげないのですが、妙に色っぽく、かと言って媚がなく、また設定量5ccの為「ま、おひとつ」の頻度が高いのですが、これが煩くない。会話もたわいのない話なのですが、親父様などと話していると、分け入らず、またそのちょっとした間に、音楽の流れの様に御酒を自然な所作で差しに来る。この一連の動きは一つの芸術ではなかろうかと 後年自分がいつも御酒の次ぎ差し側に回ることになり(男芸者と人は呼びますが)思い起こすことです。はっと気がつくと、御茶屋の女将の三味線で芸者さんの踊りが始まっていました。やはり、これは西洋流で行けば、個別客のディナーショーということになるのでしょうか。Yoshi青年の御茶屋デビューはこうしてどぎまぎしているうちに終わってしまいました。帰りに親父様からまた次の指令が出ました。「来月に予定されている清元の先生主催のおさらい会に名代で出よ。」というものでした。そんな、そもそも「おさらい会」て何? 私は人前で清元を聞かせるような状況ではないし、(やっと風呂の中で謡う程度)大体出席者はまたぞろ社長・恰幅の良いおじ様連中でしょ? そんな強烈場違い筋はもう堪忍して欲しいと願うYoshi青年でありました。 余談ですが、こんな花街勉強や、自分の育った環境から、その頃Yoshi青年は面白半分で良からぬ身の上を演じおりました。例えば同じ本部の入社同期の飲み会(何と男性9人、女性19人という素晴らしい比率でしたが)などで、ちょっとおっとりした方(無論うら若き女性)と個人的な話になりますと、急に関西弁になり(いつも関西弁だと人は言いますが)「僕のおかあちゃん芸者やったや。御父ちゃんの顔知らんねん。」などと酒席の座興で「花街シリーズ」の延長みたいに演じたりしておりました。すると、ある日同期女性のボス的な方に呼び出され、「白ちゃん!」(白奴ですから当然「白」です。)「いい加減にしなさいよ。ああいう冗談言うのは、相手を見てからにしなさい。彼女は「内の会社にもいろんな境遇の方がいらっしゃるのね。」って本当に同情しているわよ。」いけませんね。こういう冗談を言っていては。本当に、今も反省しています。 それでは次回は怖い怖い「清元のおさらい会」の話です。 文責 老松亭白奴

~バタフライ・ヤマドリという、イメージについて~

~~~第2弾はバタフライ・ヤマドリという、イメージについて書きました!ぜひ、公演にいらしてください~~~ 蝶々夫人、ヤマドリ、は日本ブランドの中ではどんな位置づけか、という話題です! さて、蝶々夫人、 バタフライと昆虫というテーマはどこから来たか? インターナショナルにクラシックな表象文化をみてみると、昆虫(日本語)、インセクトinsect(英語)、インセッティinsetti(伊)というコンセプトは、西欧古典ではたいへん珍しいテーマです。エジプト等では動物の神様が登場しますので絵画化されたり、また詩にもあったのでしょうが、昆虫や自然が盛り込まれやすい日本文化はどうやって展開してきたのでしょうか? ルネサンス以前~後のイタリアの画家・彫刻家達はダンテの神曲、神話、その後のイタリア文学に随分影響をうけている事に気づき、日本でも案外、一般に思われているより、文字文化が、歴史的プロダクトに影響をあたえているのではないかと仮定しました。テキストが一番シンプルに、意味的に公平に理解を促進するだろうから、案外多くの古今東西の作家は、古典的に淘汰されても残るような強いテキストに、多くイメージ源を負っている部分があるのではないかと考えるようになりました。 イタリアのルネサンスやキリスト教経由の、国際的に有名で重要な様々な様式、また多くの非西欧の様式やテーマは、どのように作られ、伝播したかに随分興味がある時期がありましたが、たいていこれらは美学や芸術学の範疇におさまり、音楽学で頻繁に、語られることはほとんどありません。しかし、私は声楽やオペラでは”詩”やテキストにしめる意味合いが大変大きいので、色々な歌やオペラのテーマというのは、具体的な言葉を持つ表象の分野と、各時代、もっと近い所にあると思います。 さて、大学でいろいろ調べていると、イタリアのルネサンス(ミケランジェロやダビンチ)の前に、文字をもってイタリアを統一したともいえるダンテ・アリギエーリがあり、彼の神曲(ディヴィーナ・コッメーディア)が、当時の文化人の教科書というか、勉強・解釈しなくてはならない大きな本であったこと、この物語の前にはトゥルバドゥールや、世紀末的思想、いくつかの神曲前にも、これらのいろいろな雰囲気のもととなる、多くの有名ではないが、詩人や物語が山積していたことがわかりました。その後ルネサンス、、フランス革命、産業革命と進んでこのような立地の欧米の中で、1900年代に日本のプロダクトが面白かったのは、自分たちに無い、文化体系があったからです。(ルネ・ラリックや、ガレなど宝飾家なども図案をとったりしたように、) ここでジャポニズムがどのように目立つかというと、自然や、日本画や、徳川時代までの城内の屏風や襖や、狩野派などなどの装飾や工芸などに登場する、花鳥風月という題材や自然を愛するようなコンセプトです。それから、けっこう、平和的に映ったのではないかと思います。 さらに調べていくと、江戸時代に、城等に屏風を受注した豪族を喜ばせるために、狩野一派に代表される、屏風や城内に納める絵師達は、俳諧から、お題を頻繁に持ってきた事や、俳諧において、季語が重要であるようになったこと、がわかりました。(または中国の詩や、山水画など、自然についての中国の文化の影響もある)わたしは、詩において、季語(またはそのような比喩表現)が盛んになって、文字として残った事がジャポニズムの背景にあると思います。俳諧がなくても多くの当時の日本人は自然や動植物を好んだかもしれないが、俳諧はそれを助長し、そのようなオリジナリティを推し進めた要因であると思います。 俳諧から、テーマをとってきた事実については”日本美術の歴史”という有名な本にありますが比較文化的に考えて、イタリアでは、詩・ダンテ神曲・ルネサンス・聖書・神話というテキスト、日本では、色々な源氏物語などの物語に加えて、俳諧というテキストが、プロダクト作家(当時のインテリ・文化人・豪族?)に、具体的に影響を与えているといえます。 さて、一般にバタフライとはどのようなイメージでしょうか。儚くて(長寿ではなくて)、綺麗・妖艶です。昆虫が光や炎に群がる場面を怨念として表現する場合もあるくらい、(これは蛾なのでちょっとちがうかもしれないけど・・・)妖しい魅力もあると思います。日本ではさらに女性の幽霊とか、そういう物語が多いです。それにしても飛んでいる蝶というのは、ミステリアスなイメージがあり、ドラマチックです。 ルネサンスでは、ボッティチェリやダビンチなどで花が、空中に舞いおりて止まっているような技法が発明されましたが、これはエクスタシーとされます。こちらでは蝶は舞うのでこれと同じように、華やかで美しい瞬間のイメージを持ちます。天使も舞いますね。荘子の胡蝶の夢では、(紀元前の!)中国の蝶のイメージもありますが。 もっと、イメージ的に考えると、少し冒険的な見方もできます。ダンテの神曲というのは3部に分かれているのがこの時代のイタリアの作曲家などには常識的に知られています。地獄篇inferno、煉獄篇、天国篇、という様に作られており、一番初めに、ウェルギリウスとダンテがわざわざ一番下まで降りて言って、地獄の下からあがっていく構成になっていて、プッチーニは後にこれにあてはめて、オペラ外套・修道女アンジェリカ・ジャンニスキッキを書いているのですが、虫→サナギ→蝶になる、飛んでいってしまう華やかな蝶になるまでの3段階というのは、神曲を読んだことがある人にとっては、”神曲の3段階を容易に想像できる”のでロマンチックなことが起こりそうな天国での出来事というような(うーん、そもそも夢であるというようなマサユメのような)、ことまで、考えられますが、どうでしょうか。(それくらい、ダンテの神曲は、西洋の作家が自分で料理してみたくなる題材のひとつ) このように、バタフライというのは表題として、詩に季語が反映されるような様式の一端を示していて、西欧であまり登場しない、はかない(sogno夢)、新しい、天使であって、ヒロインになりうる、印象的で、なおかつ、斬新なアイデアだったのではないかと思います。 下崎響子

”蝶々夫人について” ~初演とその成り立ち・音楽のことなど~

~~~私たちの蝶々夫人のサイトにきて下さって、ありがとうございます。~~~ 今回、コミュニティオペラは、マダムバタフライを公演する運びとなりました。 ~~~蝶々夫人のイベントに参加出来とても嬉しく思います。~~~ 蝶々夫人は、始めジョン・ルーサー・ロングが1897年に小説を発表。 アメリカ雑誌センチュリーマガジンに翌年掲載され、2年後雑誌を見たデイビッド・べラスコが、演劇台本へ戯曲化しニューヨークで成功、ロンドンで上演し、さらにこれに目をつけた、プッチーニが、べラスコに説得をかさね、この時代最高のオペラ台本作家のルイージ・イッリカとジュゼッペジャコーザによってオペラ台本化され、ジャコモ・プッチーニが、1904年までに製作し音楽を付けたものです。 G.プッチーニは、多くのオペラ作曲家の中でも、とりわけ台本の韻律と、メロディーを合わせるのが突出して優れた作曲家です。 例えば、モーツアルトのアリアより、韻律とアリアのメロディーの関係は優れています。 台本は現代以前は、11音節の韻律でかかれているもので、場合によって5、6、7、9音節を使い分けますが、この時代はリコルディ社も言うように、台本作家が非常に優れています。 プッチーニオペラのイッリカやジャコーザの歌詞をそのまま読む場合、すでに曲のリズムになっている場合が多く、台本作家が製作したリブレットのリズムをプッチーニが素材として最大限生かしている点にも非常に感動します。 たとえば、皆さんご存知の、ボエームのミミのアリアはその中でもよく出来ていて、台本のリズムとメロディーのリズムを、限りなく相似させるように、整えています。 台本の2人は有名な当時の台本作家で、イッリカが言葉を詩的に(アリアにあうような雰囲気のことばで書く)プロでした。 このように、有名なアリアは、非常に手がかけられ、詩のリズムが既に素晴らしい場合が多いです(例えば、リゴレットのアリアも同じく!!”ラ・ドンナ・エ・モービレの6音節詩”) プッチーニはイタリアから見た、中国や日本など、オリエント情緒をオペラに持ってくるのに成功した作曲家でもあります。1900年代初め、印象派や、日本が2回参加した万博(パリ万博)など、東アジアへの憧憬が欧米で深まり、当時東洋といえば、モードだった訳です。 オペラ音楽ではトゥーランドットや、蝶々夫人が代表的となりました。 私たちは、蝶々夫人のオペラの中で、”さくら”、日本の国歌、邦楽曲のメロディーを聞く事が出来ます。プッチーニはあちこちの曲から、日本をちりばめたようです。 見た目では今回のコミュニティオペラでは、全員がコスチュームとして本物の着物を着て 日本髪を結うことになっており、まさに見た目でも日本をちりばめる予定です。 近年、イタリアの野外劇場で蝶々夫人が上演された際、月が昇ってさらに日本的だった事があるようですが、このように、”日本的なものというひとつのブランド”は、現代においてもとても面白いものだと思います。 さて、プッチーニに戻りますが、プッチーニはオペラを書く場合、可憐で若い悲劇におちいってしまうキャラクターをとても大事にします。 コメディオペラにおいても可憐で若い女性、トスカ、トゥーランドットではリュー、ボエームのミミ等。 蝶々夫人は、日本の封建的な美徳も表した雰囲気の中で、さらに悲劇におちたヒロインを、構成しています。 プッチーニはそれまでの有名オペラ作曲家、ロッシーニなどと違って異国情緒を書く際、単なる憧れや面白さのみとしての素材でなく、特に随所丹念に調べた上の、リアリティ探求の作曲家である為、合唱部分は、日本らしい雰囲気が、他の作品に比べてよく出ています。 しかしながら、面白いのは、有名なこのオペラも、スカラ座で初演した際、日本風の衣装、いろいろな部分の練習が、歌手たちにはむずかしく、プッチーニ自身がなだめながら進めたという面白い逸話があることです。イタリア人達がいくらスカラ座の大プロ達であったとしても、1900年入ってすぐに突然日本の物語を演じるのは衣装なども、とても大変だったと思います。 蝶々夫人が、1900年代の作品にしては、非常にリアルな部分が多く、何かとリアリティに満ちている理由は、この作品がアメリカ・イギリスでかなり演劇で成功をおさめ、演劇台本としてかなり、手が加えられていた点があげられるでしょう。 ヴェルディがシェイクスピアの台本にオペラをつけていることからもわかるように、演劇・ドラマ・台本という土台に、既に歴史があるという蝶々婦人の個性が感じられると思います。 今回はコミュニティオペラという事で、日本庭園での演奏を目標に、コスチュームの着物など、多くのかたがたのご支援を得て、バタフライ上演に取り組んでいます。わたしたちも、日本的なものをよくみつけながら、ぜひ面白い舞台にしたいと願っています。 では、お楽しみに。 今年からアメリカでオペラを勉強しています、今回は合唱に参加させて頂きます。 下崎響子

Yoshiの花街すれ違い懐古録 その③「青二才編」

さて、Yoshi少年も大学を卒業し、親父様のコネもあったのか一応財閥系総合商社に潜り込むことができ、東京の独身社員寮(今はこれも既に死語かも知れませんね。)に起居することになりました。この時期の通勤がYoshi青年には一番辛かった。Yoshi青年には実はラッシュアワーの経験が東京に来るまで全くなかったのです。一応大阪のど真ん中に住んでおりましたから、大都会には違いないのですが、高校も・大学も郊外にあるものですから、いつもラッシュアワーの逆行きで、太平楽にも「何で皆同じ方向に行くのやろ?混んでいるのに。」と思っておったそうです。時代は昭和の50年代、高度成長期が終焉し、少々不景気になってきたとは言え、今の失われた○○年の時代とは違い、それなりに活気がありました。「ジュリアナ世代の花の女子大生の時代」よりは、もう少し前ですが、丁度「花のOL」が多く生息されていた時代です。実はYoshi青年、この苦しいラッシュアワーを乗り越えても、会社に行くのが一番嬉しかった。仕事をばりばりしたかったから?いや違うのです、自分の会社に近づけば近づくほど綺麗な女性が多くなるのです。そして幸運にも、自分のビルに入った辺りが一番綺麗で品の良い女性が多い。これは今から思えば大変恵まれた時代でした。女性の読者の皆様、気を悪くされないで聞いてください。実際そういう時代があったのです。要するに、会社の方針として、社員(男性)が社内結婚をしても問題ないような良妻賢母(これも死語ですね。)になるような女子短大卒の「事務職」(今で言う一般職)を毎年大量に採用されておりました。実際の事務はアシスタントと呼ばれておりましたが 今ではOA機器か、あるいは派遣の仕事になりそうな領域の仕事を彼女ら「花のOL」は黙々とこなされておりました。そして、「とにかく担当者を働きやすくするアシストをすること」が彼女らのモットーでしたから、そのまま家庭までアシストしてもらう(即ち社内結婚)ことになり易かった由です。 いやまた、かなり話しがそれました。このままでは「花街」ではなく「花のOL」の話ばかりになるので、話を東京の花街に戻します。その頃Yoshi青年の親父様は関東にも商圏を広げ、月のうちかなりの時間を東京に出張しておりました。ある日、突然(いつも突然ですが)神田の寿司屋かどこかに呼び出されて、「お前ちょっと清元習って来い。」と柳橋の清元の御師匠さんの名刺を渡されました。当時Yoshi青年は23歳くらいですから、「清元?それ誰ですか?」みたいな状況でした。もちろん、柳橋など行ったこともありません。上京一年ほどのYoshi青年は東京タワーさえ、まだ上ったこともないのに 何で柳橋の御座敷に上る用事がありますか。柳橋がどういうところか下記URLに簡潔に纏められております。どうぞ参照ください。 http://www.rikkyo.ne.jp/web/z5000002/p1000/03-ensyuu/03-ensyuu03/0303-1.htm いつも結論しか言わない、結構怖い親父様でしたが、話が話しだけに分けを聞きますと、要は柳橋の「とある御師匠さん」のところで清元(人形浄瑠璃のバックにかかる謡曲と言えば分かり易いと思います。)を習う約束をしたのだが、関西からの出張のついででは流石に稽古に通うことはできない。よって息子を代理として行かせるから稽古を付けてくれという話になった模様でした。Yoshi青年は、少々パニックになりながら「でも、親父様が習わないなら意味ないでしょう?」というと「お前が、習ったことを教えてくれればそれで良い。」と無茶な話でしょう?でもまあ、素直なYoshi青年は絶対的権力の持ち主である(居なくなったなそういう親父像!)親父様に逆らえません。翌日夕刻、住所片手に初めて訪れる浅草の花街、柳橋界隈を歩いてみました。Yoshi青年にとっては何となく老松町に似た懐かしい趣があります。漸く清元の御師匠さん(何とか太夫とか言いましたが)の町屋を見つけ、狭い階段を二階に上がると、若干は想像していたものの、既に50から60歳くらいの会社のオーナー然とした叔父さん達が会社帰りのスーツ姿で胡坐をかいて自分の稽古の順番を待っているではないですか。若干23才のYoshi青年は場違い筋も甚だしく思え、「間違えました。失礼します。」といいそうになったところを、綺麗な声で奥の方から「あら、そちらにいらっしゃるのは○○さんの御坊ちゃんね?貴方のことは聞いていますよ。こちらへお上がんなさい。」と優しく呼ばれるもので、ふらふらと御師匠さんの前に参りますと、年の頃なら40過ぎ(アラフォーというイメージではありませんが)Yoshi青年の成れの果てである今の老松亭白奴翁の視点から言うと「小股の切れ上がった」いい女ということになるのでしょうが、青二才のYoshi青年はとにかく真っ赤になって、所謂「清元の口移し稽古」を叔父さん達の待ち順番を割り込んで始めておりました。稽古の後で、初老の稽古待ちの紳士軍団の目線が、いやにきつくYoshi青年を見ているのに気が付きましたが、本当に場違い筋の若造が入って来た割には師匠に大事にされていると思っていたのでしょうね?ああ怖わ! 今考えてみるとこの清元の師匠、親父様が結構入れあげていた方ではなかったかとも邪推してしまいます。確かに、芸者上がりの方ですから、客扱いは上手いし、言葉や動作などの所作全てが優雅でYoshi青年は、流石にお師匠さんを女性とは意識しませんでしたが、若干憧れて少々真剣に通っていたのかも知れません。そう言えば、Yoshi青年が実家に帰ったとき、母親が同席しているとき親父様は一切柳橋界隈の話はしませんでしたね。今思うとちょっと変? さて、次回は人生の最初で最後かも知れないYoshi青年の「茶屋遊びデビュー」と「清元のオサライ会」の御話をしたいと思います。 文責 老松亭白奴

自由気ままにオペラ パート2

皆様 こんにちは。自由気ままにオペラパート2は、スイス、チューリッヒにあるチューリッヒオペラハウスのお話です。このオペラハウスはヨーロッパでもトップクラスに入り、チューリッヒ湖のすぐそばに佇むとても優美なオペラハウスです。ワーグナーがチューリッヒで活動中だった1834年に劇場ができ、その後、火事にあいましたが1891年に再び設立しました。座席数は1100とそれほど大きいオペラハウスではありませんが演目数も多く、ドイツものはもちろん、イタリアものとなかなか日本やアメリカではやらなさそうなもの、ヤナーチェク、シェーンベルグなど上演しており興味深いです。今はすっかり人気者のなってしまったテナーのカウフマンもこの劇場で若い頃(今も若いですが)ワーグナーのレパートリーをよく演じていたとのこと。そのころの彼の髪型は不思議で笑ってしまうのですが、聞いてみたかったな〜。 私が観劇したのは“カヴァレリアルスティカーナ”と“道化師”の二本立てでした。この2つはヴェリズモオペラを代表する演目でよくこの2本はセットで上演されています。このヴェリズモ オペラとは19世紀後半に起きた運動“ヴェリズモ(現実主義)”がもとになったもので事実真実をありのままに表現する、という考えがもとになっています。特徴としては管楽器を生かした聴衆の感情に直接訴えかける表現がおおく、歌のほうも表現力がとても大切になってきます。 カヴァレリアルスティカーナはイタリアのシチリア島が舞台で間奏曲がとても美しくて有名ですが、この日私はテナー(トリッドウ役)のホセクーラに注目していました。彼はその何ヶ月か前に同演目を違う場所で演じていてとてもレビューがよかったので期待が高まりましたが、たしかにこういう熱い感情を表現するのに彼の声はあっているのですが少し相手役のサントッツアが役不足というか、トリッドウとのからみの部分を速く飛ばしすぎてもうちょっと聞かせてほしかったな、と思いました。一番の聞かせどころなんですから。次の道化師のほうはクーラの演技がさえて、少し狂気がかっているカニオの様子がなにか悲劇がおこりそう!と最初から予感させてくれて、楽しそうにしてる部分も逆に怖い感じがして、リアリティがよく出ていました。アリア“衣装をつけろ”も裏切られたことに対する屈辱、葛藤、あきらめの感情が非常によく表現されていて、共感を呼びました。ネッダとシルビオのデュエットも美しく、この日はカバレリアに比べ道化師のほうがだんぜん歌の部分でも演技の部分でも優れていて、たしかにまったく違うオペラではあるのですが、2本続きで演じて完成度がこんなに違うものか、と驚きました。 次は音楽の都ウイーンからウイーン国立歌劇場のお話です。

Yoshiの花街すれ違い懐古録 その②「学童編」

さて、皆様の御正月は如何でしたか?ここシリコンバレーにおりますと日本のような正月気分にはほど遠いですが、それでも御雑煮くらいは頑張って家の奥様も作ってくれます。ご存知かも知れませんがYoshiの出身地大阪は白味噌の御雑煮で、神奈川出身の家の奥さんはお澄まし仕立てです。元旦の朝にどちらの御雑煮からスタートするかで昔は若干揉めましたが、今では朝が白味噌仕立て、夕餉がお澄まし仕立てで落ち着くようになりました。ところで、蝶々夫人の長崎では、塩ぶりを使った澄まし仕立てが昔から一般的だそうですね。蝶々夫人も芸者に出る前には御母さんの作ってくれる添付WEBのような御雑煮を食べていたのでしょうか。 http://www.mirokuya.co.jp/s/nagasaki/7.html 白味噌仕立ての御雑煮の話で思い出しましたが、Yoshiの実家はそこそこの商家で、父親が結構食材にうるさく、御雑煮の白味噌は「生野」(多分父親の使っていた料亭名だと思います。)の特製品でないと駄目だとか、米はその当時まだ銘柄米など余りなかった時代から、宮城の「ササニシキ」でないと駄目とか非常に拘っておりました。また、我が家の元旦恒例の儀式の話しで恐縮ですが、これを人に話すと「絶対変!」と言われるのですが、敢えてばらしましょう。父親は元旦の朝食が終わると、自室にこもり、暫くして5人の子供達(何と全員男子でしたが)を一人ずつ自室に呼びいれ、「今年はいくらお年玉を要求するか。また、その金額の妥当性を担保する、昨年の行い及び今年の抱負について述べよ。」(まあ、その当時はもう少し子供に分かるような言い方をしたとは思いますが)とお年玉を渡す前に問いただします。無論、最初から与えるお年玉の金額は、「昨年度の実績プラスCPIカバー」か何かで既に父親は決めているのでしょうが、その数字の刷り合わせ、及び子供にはそれに対する見返りのコミットメントを表明させるのが慣わしでした。これではまるで労使交渉ではなかったかと大学くらいになってから思いましたが、結構元旦の来るたびに緊張したことを覚えております。特に昨年もらった金額を覚えていない兄弟には、かなり厳しい裁定があったように覚えております。因みに2番目のYoshi少年は結構要領よく、短時間でこの「親子交渉」を済ませ「へへへ」などと笑いながら緊張して待っている年下の兄弟を尻目に御札の勘定です。他の兄弟からは「お前はずるい」とか言われておりました。 前置きがいささか長くなりました。このままではお年玉の話で終わってしまいそうなので、Yoshi少年の小学校時代の友人の話をしたいと思います。彼(N君としましょう。)とは結構親しく、小学校の直ぐそばにある長屋(隣が壁で繋がっているタウンハウスのようなもの)の風情のある町屋に住んでいましたが、小学校が近いこともありよく遊びに行きました。何度か休みの日にも遊びに行ったこともありまして、たまには夕食などをN君の御母さんから遊び仲間と一緒に頂いたこともありました。N君の御母さんは、少なくともYoshi少年の家の「オカン」よりは子供心にも艶っぽく見え、何となく優しかったことを覚えております。ただ、いつ行っても御父さんがいらっしゃらない。小学生くらいだとYoshi少年と言えども無論素直ですので、聞いてしまいました。「何で、いつも君とこ、おとうちゃんおらへんの?」N君はちょっと言いにくそうでしたが、「うん、僕とこのおとうちゃん、いつもおらんで、たまにひょいと来はんねん。」そうなのです。後年気付いたのですが、彼の御母さんは今では死語かも知れませんが、所謂「2号さん」というポジションで、その風情から恐らくその出自は芸者さんか、それに近い方(高級料亭の仲居さんとか)ではなかったかと思います。後になって高校か大学時代の小学校の同窓会でそのN君と再開したときは、彼の苗字は変わっており、またお母様はやはり老松町界隈のある料亭の女将になられたと伺いました。今になって思うのですが、そう言えば老松町界隈にはそのような雰囲気の御宅がここかしこにあったような記憶がありますし、街全体がそんな感じで、その雰囲気全体を受け入れるような感性があったように思います。そんな、雰囲気の場所で成長するとどうなるかって? そうです。Yoshiや「老松亭白奴」のようになるのです。 次回は、社会人になり、花街を大阪の老松町から東京の柳橋に移して、少々おしゃべりしたいと思います。それでは本日はここまでにしたいと思います。 文責 老松亭白奴

オペラブログー自由気ままにオペラその1 by ネコママ

オペラと聞いて“面白そうだけど、よくわからない”と思ってしまう方は大勢いらっしゃると思います。実は私もその一人でした。でもよく解らなくても、聞いていると、またはオペラハウスに足を運ぶようになると楽しみが解ってくるというのがオペラというものだと身をもって経験しました。例えば“ああ、ブレスはここでしたら全然このフレーズが生きてこない”とか“あそこの最後のキーは譜面通りじゃないな”とか最初からいろいろ考えなくても楽しめるのです。でもやはり観劇するにあたっては予習をしておくと、おかないのでは楽しめるレベルが変わってくるのも事実というところ。この場合の予習とはあらすじ、注目のアリア、デュエット、重唱などを聞いておく事、になりますが、私はなるべく時間がある限りDVDを見ておくようにしています。なぜかというと、時々有名なアリア以外に美しい場面、音楽を発見することがあり、それが楽しみなのです。 このブログで少しでも読んでくださる方(特に初心者の方)にオペラの楽しさが伝わればいいな、と思い今回はヨーロッパのオペラハウスの経験談ををもとにブログを進行させていただく予定です。それではますオペラの黄金時代に輝かしい歴史を築いたオペラハウス、イタリア、ミラノにあるスカラ座から始めさせていただきます。 スカラ座というと、ヴェルディが“ナブッコ”をここで初演し、当時オーストリア支配下のイタリアで大絶賛をうけ、囚われているユダヤ人が祖国を思い歌う合唱は特に抑圧されているイタリア人の共感を呼び、イタリアの統一運動とも連動したことで有名です。指揮者では特に有名だったのはアバド、ムーティで彼らの時代はスカラ座は最高峰の上演をするということで評価をうけていました。私がスカラ座に観劇に行きましたのは数年まえの夏でしたが、猛暑で日中は日が照りつけていて、歩くのもちょっと苦しいという状態でした。でも7時ごろになり、少し涼しくなってくると、どこからともなくサテンのドレスを装った女性たちがスカラ座の前に現れはじめるのです。夏だったのでみなさんカラフルでアクセサリーもちょっと大胆なもの、靴はハイヒールにアクセサリーがついてるものにクラッチバックとおしゃれ心たっぷりで、さすが、ファッションの国イタリアです。男性も少し細身のテーラードのジャケットに細身のネクタイをしている方や、ミラノ風、粋なくずし方をしてシャツの柄が変わったものや、全然違う素材のパンツ、ベルトで合わせている方など見ていて楽しい限りです。スカラ座のとなりにはスカラ座のミュージアムがあり、昔の歌手の衣装や、観客の衣装(羽のついた小さなうちわ、仮面舞踏会のようなマスクもありました)オリジナルの譜面、などなどたくさん興味深いものがあります。 オペラハウスの中に入ると、まずはドリンク、ということでみなさんバーカウンターでシャンペンなど注文されています。このバーはBALL ROOMと隣接していて、というかその一部になっている形で昔はここで、観客はSOCIALIZEしたりDANCEしたりと楽しんだのでしょう。大きな鏡やかわいいアンティークのソファなどがところどころにあり、みなさん談笑しています。 この日観たのはヴェルディの後期の作品“アイーダ”でした。古代エジプトが舞台で恋愛関係にある、エジプトの武将ラダメスと奴隷アイーダ(実はエジプトの敵国エチオピアの王女)、ラダメスに恋するエジプトの王女アムネリスとの三角関係に政治的策略、対立、葛藤がからみスケールの大きな舞台になっています。私はこの日席が上のほうであまりよく見えないかもしれないと心配でしたが、劇場自体は割りとこじんまりしていて、馬のひづめの形に客席が配置されており、私たちが座ったのは3階の前のほうでしたが十分舞台はよく見ることができました。各座席の前の部分にスクリーンがついており、英語で字幕がみることができます。スカラ座の劇場の中はとにかくベルベットのカーテンをふんだんに使って、そのカーテンにもいろんなディティールがついているので劇場自体がまるで華麗なドレスのようになってます。このオペラで私が注目するのは王女役アムネリスで、この役のできによってかなり話の深さが変わってきます。しかし今回はアイーダ役のほうが勝っていて、最後のラダメスとのデュエット“大地よさらば”は特にすばらしかったです。このとき舞台は上下二段に別れていて地上で嘆き悲しむアムネリスと地下で一緒に幸せを感じながら死んでいく、ラダメスとアイーダの対比がよく解るように演出されていました。オケもしっかり重厚でまとまった音を出していて、2幕のスペクタルのシーンではバレリーナ達が美しいバレエをみせてくれました。音楽は1幕からエジプトのエキゾチックなフレーズが流れ、このフレーズはところどころで何回も出てくるのですが、聞いているほうに違うディメンションを感じさせてくれます。 次回はスイス、チューリッヒオペラハウスのエピソードになります。次回はもう少しオペラの内容にふれる形で進行します。

Yoshiの花街すれ違い懐古録 その①「幼少編」 by 老松亭白奴

Community OperaのメンバーであるYoshiと申します。今回の「蝶々夫人」では結婚斡旋屋のGoroさんの一幕の場面を演じさせて頂きます。一応今回はブロガーとして登場しますので、ペンネームもありまして、幇間(男芸者)や噺家を気取り、「老松亭白奴」(おいまってい!しらやっこ)とさせて頂きます。 ところで、この蝶々夫人自身の出自であり、また本オペラのかなり部分を占める「芸者」(Geisha)の意味やその生態は、外国人はもちろんのこと、我々現在を生きる日本人でさえも余り実体験で掴んでいないというのが実情ではないでしょうか? 京都の舞妓さんなどは今も華やかで、しっかりとした京都の観光資源ではありますが、本来の意味の芸者は既に日本の社会でも「絶滅危惧種」の趣もありそうです。即ち、大方の日本人も自分の皮膚感覚で「芸者さんとは何たるか?」を掴んでいないし、実生活でも芸者さんに関わる場面も余りなさそうです。そんな観点で、当方の拙い過去の経験からこの芸者さん達、あるいは芸者さん達の生息する「花街」界隈の経験談、というより「すれ違った経験」を披露させて頂くのも一興かと思い筆を(いやタイプを)取りたく思います。 Yoshiの出生について:芸者の話をするのにYoshiの生まれなどどうでもよいとお思いでしょうが、これが少々関係あるので聞いて頂きたく。小生は漫画の「三丁目の夕日」等でおなじみの昭和30年代に、大阪は南の道頓堀に並ぶ繁華街である北の新地の東側に隣接する老松町で幼少を過ごしました。北の新地は御堂筋にほど近いのですが、そこから御堂筋を東に超えた地域に天満の天神さんの表参道でもある老松町と呼ばれる通りがありました。(因みにこの天満の天神祭りは日本三大祭りと呼ばれており、実家の前を御神輿行列が通ります。)この界隈は商家と町屋が混在する風情のある町で、大正・昭和の初期には文化人や商家の大棚が住まわれておりました。現在でもその風情は「老松骨董通り」(下記URL参照)として親しまれており、古物の価値が分かる町として未だに知る人ぞ知るというスポットではあります。私の母親はまだこの老松町(今の住居表示では風情のない西天満と呼ばれておりますが)の町屋に一人で住んでおります。ここは2階建ての町屋に改造を重ねた為、部屋数大小12くらいあり、まるで忍者屋敷のように入り組み、未だに入ったきりまだ出てこない人もいるとか。 http://www.st-city.jp/blog/2010/12/post-102.html そんな由で、近所には当時の大棚・実業家が集う高級料亭もあり、そこに出入りする芸者さん達の置屋(芸者さんのProduction事務所のようなもの)もありました。その頃は小生は幼稚園に上がるか上がらないかの頃だったと思いますが、夜8時-9時頃になると良い子の私は寝かしつけられておりました。そんな夜半、近所から聞こえてくる三味線の爪弾き、これは多分「半玉」(芸者の玉子・見習い)に稽古をつけているやはり芸者上がりの御師匠さんの爪弾きだったのですが、これが子供心に物悲しく聞こえ、なかなか寝付けなかったことを覚えております。今、この実家に帰ると夜半には近くのカラオケバーから下手な演歌がもれ聞こえ、今度は違う意味で寝付けないことが多々有ります。本当に、今の老松町には風情も何も残っておらず、こんな下手な演歌なら、自分が行って聞かせてやろうかと思う次第です。 さて、当時の老松町のお昼過ぎくらいに、家の周りを歩いておりますとこの粋筋の芸者さん達が、近所の御風呂屋さんから着流し姿で歩いていたような記憶もうっすらと残っております。それが粋筋かどうかなどは、今記憶をたどってそう思うわけで、その頃に粋筋が分かっていた分けではありません。(念の為)何?粋筋と分かったら追いていちゃうって? いや今、思うにつけ小生は男にとって結構いいところに住んでいたのだなと、大人になってあの時代のあの辺りにタイムマシンに乗って帰りたいとつくづく思う次第でございます。 次回は小学校時代のやはりこの界隈に纏わる御話をさせて頂きたいと思います。 文責 老松亭白奴

蝶々夫人物語(1)蝶々夫人のモデルは誰か by 中村亜起子

蝶々夫人のモデルとして有力視されているのは、幕末から明治にかけて活躍したイギリス商人トーマス・グラバーの妻となった談川ツルである。その理由としては、ツルが外国人と結婚していたこと、格式の高い士族の出身であること、蝶の紋の着物を好んで着用しており外国人の訪問客に「お蝶様」と呼ばれていたこと、グラバー邸から見渡せる美しい港の景色がアリア「ある晴れた日に」を彷彿させることなどがある。 談川ツルは徳川御三家の一橋藩士の家の出であり、大阪より豊後(大分県)の武田藩に嫁ぎ一児センをもうけるものの、その後竹田藩が佐幕派から倒幕派に変わったため、ツルはセンを婚家に残し離縁を申し渡された。これはツルが17歳の時のことであり、奇しくも舞台での蝶々夫人がわが子をピンカートンに託す決意を下す年齢と同じである。ツル及びツルがグラバーとの間になした子息に関しての研究は、センの孫にあたる国鉄職員であった故野田兵之助氏とその令嬢野田和子氏により、詳細な調査がなされている。 グラバーは1859年に上海経由で長崎にわたり、薩摩藩及び長州藩を中心に貿易を行った大英帝国の御用商人である。当時イギリスは世界の貿易権をめぐり、フランスと熾烈なライバル関係にあり、徳川幕府と深い関係にあったフランスと対抗すべく、グラバーは反徳川の兆しの見える九州での立場を築きたい大英帝国の思惑を背負っていたものと思われる。グラバーは坂本竜馬、高杉晋作、伊藤博文、井上馨等とも深い親交があり、彼らの倒幕の精神を形成する上での深い影響力を与えた。後グラバーは三菱の顧問も勤め、岩崎弥之助もツルとは親交があった。岩崎に麒麟麦酒のビジネスアイディアを勧めたのはグラバーだと言われている。グラバーは晩年は東京で過ごし1908年(明治41年)、外国人として初めて勲二等旭日重光章を授与された。グラバーは大変な親日家であり、73歳で死ぬまで日本で暮らし、52歳でなくなったツルとの夫婦愛も全うした。1911年(明治44年)に死去。墓は長崎市内の坂本国際墓地にあり、妻のツルとともに埋葬されている。 ツルをグラバーに結びつけたのは、五大友厚という薩摩藩士である。五大友厚は高杉晋作の盟友でもあり、明治に入っては、大蔵省造幣局、堂島米商会所、大阪市立大学、住友金属、大阪三井商船、南海鉄道等を設立し、後に渋沢栄一と共に日本の経済界の親として知られるようになる人物である。 ツルはグラバーとの間に一男一女(富三郎とハナ)を設けた。ツルの息子は倉場 (グラバー) 富三郎として知られ、学習院を卒業後、アメリカの名門ペンシルベニア大学で生物学を学び、帰国後長崎汽船漁業会社を創業し、トロール漁業法を日本に導入し、水産動物の図譜「グラバー図譜」を出版した。第二次世界大戦中は混血であるという理由のみで、スパイ嫌疑をかけられ投獄され、1945年、故郷の長崎の原爆投下を自身で体験した後、長崎の自宅で自殺し、その数奇の一生を終えた。富三郎の墓は父母のグラバー夫妻の隣、港を見下ろす墓地に埋葬されている。自己の著作の学術書はすべて渋沢栄一の孫である渋沢敬三子爵に遺言で残し、渋沢敬三はすべての倉場富三郎の著作を長崎大学の水産学部に寄贈した。 オペラ蝶々夫人が基にしている短編小説の著者ジョン・ルーサー・ロングは、アメリカの弁護士であり、日本に来たことは一度もなく、メソジストの宣教師として赴任した姉夫妻からの覚書を基にして、蝶々夫人を執筆した。富三郎とハナは長崎のメソジストのミッション系の学校に通っていた。舞台の蝶々夫人のように、ツルもキリスト教の信仰に生きた女性であるとは容易に推測できるであろう。幕末維新の激動期、尊王佐幕、開国攘夷、やみくもなる西欧化近代化への傾倒、それに手のひらを返すような反米の日本帝国主義、混血に対する差別、子供との生き別れ等、多くの激動と苦しみを経験しつつも、信仰と生きる本能、そして自分の運命を受けいれることにより、激動の人生を生き切ったツルの強さが、オペラ蝶々夫人の感動の底に今も流れていると言えるだろう。